「南蔵院」の思ひ出
先日行った「南蔵院」
その前に一人で行ったのは、いつだったのか。
10年近く前?
それとももっと前?
一人で行ったのは、一、二度はあったと思う。
母や兄達と最後に行った時は、その時はもう、「涅槃像(1995年完成)」は出来ていた時だった。
初めて“胎内廻り”を体験したんだっけ?
「涅槃像」の胎内には、四国八十八ヶ所の砂が順番に敷き詰められていて、壁に一番からの掛け軸があり、一歩一歩踏み締めて行くと、八十八ヶ所を廻った事と同じありがたい意味があると云う「お砂踏み」もあった。
記憶では「涅槃像」の内側の壁一面に、小さな黄金の仏像が並べられていて、圧巻だった。
多分その小さな黄金の仏像は、供養のために一体づつ申し込んで奉納するものなのだろう。
「大師堂」の壁の“小さな黄金の仏像”は、
今ではすっかり煤で黒くなっていた。
「涅槃像」の中の“小さな黄金の仏像”は、あれからどうなっているだろう。
今回は「胎内廻り」をしなかった。
母兄達と行った時は、まだ七福神のトンネルの内壁に貼る「銅板の仲良し地蔵」のスペースが空いているくらいだったが、今では当たり前だが、貼るスペースは無く、経年の色変化をしている。
七福神トンネルを抜けたら「大黒堂」があって、黄色いお札入れか宝くじ入れのようなものを買って今も持っている。
宝くじはこれから当たる…かな?(笑)
母兄達と「涅槃像」完成後の、新しいお堂が沢山建てられて、昔と様変わりした「南蔵院」を訪ねた後、母は「南蔵院」に行きたがらなくなった。
─昔の「南蔵院」
父の姉夫婦(私のおばさん・おじさん)が信心深く、よく「篠栗」にお参りをしていたので、父も母も一緒に行くようになったそうだ。
首から下げる白いポシェット、山谷袋と云うのだそうだが、それに一握りのお米と沢山の1円玉を入れて、お参りしながらお地蔵さんの前のかごに入れるのだ。
より多くのお地蔵さんにお賽銭をあげたいので、みんな1円玉や五円玉やお米をあげるようになっているのかなと思った。
お米は、しかし雨が降るのでふやけてしまうし、どうするのだろうと思っていた。
当時「南蔵院」では鶏🐓が放し飼いにされていて、どこでもお地蔵さんの間でも鶏がたむろしていたので、もしかしてお米を食べて貰うために飼っていたのだろうか。
昔の「南蔵院」は古いお地蔵さんばかりの
本当に霊場だった。
現在のようなお堂は、あまり建っておらず、「不動の滝」の前も、今より広々としていた印象だ。
参拝者も白装束を着た巡礼者や、首から山谷袋を下げた日本人ばかり。
私もその昔、両親に連れられて何度か行った時、真言を唱え一生懸命祈った。
百年以上も前からそこに在るような、本当に顔もすり減って判らないような苔むした野仏が累々と乱立していたと記憶しているのに、あれはどこへ行ってしまったのだろう。
確か、見上げるような「大不動明王」の周りにも、沢山在ったはずだが、現在は新しい「五百羅漢」が並んでいる。
古いお地蔵さん達は、他の札所に移動されたのだろうか?
それとも一つにまとめて供養されているのだろうか?
百年も前から在るような物言わぬお地蔵さん達は、亡き父・伯母伯父達や、沢山の人達の祈りを聴いて来たに違いない。
母は、あの時と同じ野仏達に参る事で、父に祈りたかったのだと思う。
父があの世に旅立って何年も経った頃、引き出しの中から「山谷袋」とビニール袋に入った沢山の1円玉が出て来た。
母は「篠栗」に参りに行っていた頃のだねぇと感慨深げに云っていた。
母は、父亡き後は「篠栗」に行く事はなかった。
伯母伯父も今はもういない。
─ずっと行っていなかった「篠栗」に本当に久しぶりに家族と行く事になったのは、やはり「涅槃像」が出来たからだと思う。
久しぶりの「南蔵院」は、えっ?!と云うほど様変わりしていた。
ひとしきりアミューズメントを見学した私達は、きれいだね~、あれやこれや造っているね~と感心したが、でも昔の雰囲気が好きだったね~と云い合った。
物言わぬ静かに微笑む野仏達には、歴史の重みと、父との思い出が染み着いていたからだろうなあ…と、ちょっと切なかったからだ。
─それでも「涅槃像」が建立されてから、早28年にもなる。
現在の「涅槃像」のある「南蔵院」として歴史は刻まれて往くんだなあ…。
─コロナが5類になって、外国人観光客も増えて来たそうで良かったが、昔のような日本人の参拝者も増えて欲しい。
9月10日に行った時は、ほとんど外国人で驚いた。
山谷袋を首に下げている人なんて、目にしなかった。
ただ、見上げるような「大不動明王像」と、ちょっと窮屈になった「不動の滝」は、今も変わらず私を迎えてくれた。
これからどんどん「巡礼の場」として発展して欲しいなと思った。✨
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